現代の日本にもう一度、藍染めの奥深い世界を広めることがミッション!
~武州の藍染め技法を色濃く受け継いできた野川染織工業株式会社(羽生市)の取り組み


「藍染め」は日本の伝統文化の一つとして知られていますが、埼玉県羽生市は江戸時代から続く「藍染めのまち」として有名であることをご存じですか?
武州(羽生、加須、行田)と呼ばれたこの地域の藍染め技法は、深みある藍色と「青縞」と呼ばれる自然なムラが特徴で古くから人々に愛されてきました。現代では、剣道着や作務衣などにとどまらず、スカーフや日常着、シーツなどさまざまなアイテムに取り入れることで、藍染めの魅力を広める取り組みも進んでいます。
100年以上前に創業し、藍の「天然発酵建て・先染め」という武州の伝統を守ってきた野川染織工業をたずね、代表取締役の野川雅敏さん、専務取締役の野川雄気さんにお話を聞いてきました。



INDEX
江戸時代に始まる藍染めの歴史
野川染織工業は1914年(大正3年)に初代・喜之助氏が独立創業し、約110年もの間、伝統を受け継いできました。4代目となる野川雅敏さんは、まず、武州になぜ藍染めが広がったのか、その原点について詳しく説明してくれました。
利根川の恵みから始まった藍染めの原点は自給自足用の野良着
「江戸時代になぜ武州で藍染めが始まったかというと、この地域には河川の氾濫がもたらす養分豊かな土地が広がっていたからです。藍染めの原料になるのはタデ科の藍(和名:アイ)という植物ですが、藍は多くの養分を必要とする作物で関東周辺ではこの地域のみで栽培が可能でした」と野川さん。
藍はこの地域の究極の特産物だったそうで、武州は播州(兵庫県)や阿波(徳島県)と並ぶ藍の産地として知られていたそうです。
藍は染料としてだけでなく、消炎、解熱、解毒、止血などの薬効も持ち合わせていたため、江戸時代の人々にとって生活に欠かせないものでした。野川さんいわく、「藍で染めた綿糸は、強度が増し、吸湿性や防炎性が向上するほか、虫よけや蛇よけにも効果があるため、農作業着として野良着に多く用いられてきたんですね。藍の効用から、藍染めの衣類はお侍が鎧の下に着用していたとも伝えられています」
藍染めだけでなく、染め織りの文化が発達した理由について野川さんは、「羽生が藍も綿も両方育つ肥沃な土地だったから」と説明します。「農民はまず藍を栽培して、発酵させた藍液で綿糸を染め、布に織って自給自足用の野良着に仕立てる。恵まれた環境を背景に、羽生では藍の栽培と糸の藍染めが自然と自給自足の形で根付いていったんですね。実は、渋沢栄一の実家も藍問屋を営んでいたんですよ」
地場産業として発展するまで
農民の間で自給自足として始まった藍染め、機織りはやがて地場産業として発展していきました。
「作物として藍を育てるだけでなく、糸を染めて、それを機織り(テキスタイル)して、野良着などに仕立てるといった産業がこの地で興ったことが実はすごいことなんです。その背景には、藍の栽培と染め、機織りが一心同体としてあったからこそ産業が生まれた」と野川さんは強調します。
この「染め」と「織り」を一体化させた生産体制は、地域の経済を支える大きな力となり、武州藍のブランド価値を確立していきました。
また、利根川という流通経路が近くにあったことも、武州藍染め産業の発展に貢献しました。農村部での藍染め衣料が都市部へと広がり、武州藍は一大産業として多くの人々に愛され、地域全体を支える地場産業として根付いていったのです。
青縞の歴史

青い縞に見える自然な色むらのある生地の写真
「青縞」という名称は江戸時代にまで遡り、当時から広く知られた武州藍染めの地域ブランドでした。武州では、織り上げた布を染める型染めではなく、糸の段階から染める「先染め(糸染め)」の技法が受け継がれてきました。この手法では、藍染めした糸に自然なムラが生じ、織ると白い線が縞のように見えます。これを逆手に取り「青縞」と名付けられ、羽生の青縞は説明不要のブランドとして評価されるようになったのです。
職人から創業者へ!初代・喜之助氏の心意気
武州の藍染めと織りの伝統を受け継ぐ野川染織工業はどのように始まったのでしょうか。
「初代の喜之助は隣町である菖蒲町(現在の久喜市)に次男として生まれました。少年期に年季奉公に出た加須の地で藍染めと出会い、その後、羽生に移ったそうです。当時は羽生が一番盛んで、産業都市がすでに形成されていました。日露戦争の頃が最盛期で羽生には300軒ほどの紺屋(藍染屋)が軒を連ねていたといいます」
当時、どれほど藍の染織産業が盛んだったか、野川さんは1909年(明治42年)に発行された小説を引き合いに解説してくれます。「田山花袋の小説『田舎教師』の冒頭に“四里の道は長かった。其間に青縞の市の立つ 羽生の町があった”と出てくるんですよ」
そのような時代にあって、大正三年(1914年)、創業者である喜之助氏は職人としての地道な努力を基に独立を果たしました。仲買人が力を持っていた当時、職人が事業を起こすのが非常に難しかったそうですが、喜之助氏は人間の信用のみを武器に事業を立ち上げました。今日、野川染織工業は糸の染めから染織、縫製まで一貫して行う全国でも数少ない企業となり、初代の志と共にその伝統を未来へと受け継ぐことに力を注いでいます。
糸から染める先染めは羽生にしかない!藍染め技法の特徴と魅力
藍染めの深い色合いや効能は原料の藍の葉を発酵させて染めるからこそ生まれます。藍の「天然発酵建て・先染め」という武州伝統の技法とはどのようなものなのでしょうか。専務取締役の雄気さんに野川染織工業で職人さんたちが働く現場をめぐりながら、藍染め技法の神髄を紹介してもらいました。
天然発酵建て・先染めから織り、縫製まで
1.乾燥した藍

藍の葉を乾燥させたものの写真&原料の「すくも」が積み上げてある写真
開花前に収穫した藍の葉を乾燥させ、さらに発酵させた藍染め原液の原料となる「すくも」。現在、藍は利根川周辺では栽培されておらず、野川染織工業では四国産のすくもを仕入れています。
2.染める前の白糸


木綿糸が積まれている倉庫&職人さんが糸をほぐして輪っかにしている写真
海外から輸入された白い木綿の糸。これらは芯に巻かれた状態(チーズと呼ばれている)で輸入されますが、この状態では中に空気が入っていかないためうまく染まりません。ここでは、芯に巻かれた糸をほぐして輪っか状にまとめて、染めやすい状態になるようにしています。木綿の糸は太さがさまざまあり、番号によって太さの違いが表され、番号が上がるほど糸は細くなります。
3.藍染めの現場



容器が並ぶ前景の写真&職人さんが糸を入れる写真&職人さんが糸をしぼる写真
ここが「天然発酵建て・先染め」を行う現場です。
先染めを行う四角い容器が12、3本あります。昔は甕(かめ)と言われていました。藍は水に溶けません。糸を染めるためには、まず、容器の底に原料であるすくもを敷いて発酵させます。微生物による発酵が起こることで青色の成分が水に溶け染液として使える状態になるんですね。これを“建てる”と言います。
良好な状態の藍液を作るには、四季折々の気温や湿度を肌で感じながら、毎日ほどよく攪拌させる必要があります。むやみやたらにかき混ぜると藍は弱ってしまいます。その勘どころは職人技ともいえ熟練を要する作業です。
何本もある容器の中の染液は、発酵させている日数が異なります。容器は古いものから新しいものの順番に並んでおり、古い液が一番薄い色に染まり若い液ほど濃く染まります。そのため、糸を染める際は古い液から順番に糸を入れてはしぼり、入れてはしぼりという作業を30回以上繰り返して濃い藍色へと染め上げていきます。
実は、水に溶けた藍色を発色する成分は藍色をしていません。空気に触れることで初めて藍の色が出るんです。野川染織独特の風合いと肌触りは、30回以上繰り返される染めの作業によって生まれます。
4.旧式のシャトル織機

シャトル織機の写真&そこで織られている生地の写真
野川染織工業では昭和30年代、40年代に作られた機械を今も使っています。 「織りの世界はオートメーション化されて、もっと早く織ることができる機械が一般的ですが、うちで作る藍染めの糸には合わないので今でもこのヴィンテージのシャトル織機を使っています。」
5.縫製

剣道着をミシンで縫っている縫製の部屋の写真
藍染めはエコフレンドリーなシステム
古くから伝わる藍染めは環境にやさしい産業であり、野川染織工業では環境への配慮も受け継いで守っています。
「藍染めはもともと環境に優しい染色法でありかつては全て手作業で行われていました。現在では藍液に浸した糸をしぼる作業のときのみ動力を使用していますが、それも手作業に近い速度でしぼる工夫がされています。なぜなら、本来手作業でしぼるのが一番染めムラがでないからなんですね。やみくもに機械化をして作業の効率化を図るのではなく、藍染めにとって最良の方法で進めています」と雄気さん。
さらに4代目の野川さんは、「藍染めで使われた後のすくもは家庭菜園の肥料として再利用しているんですよ。藍染めは廃棄物をほとんど出さない循環型のエコシステム」と環境へのやさしさを強調します。
現代における藍染の需要と用途、地域とのかかわり
高度経済成長によって、藍染めの野良着は全く必要なくなりました。かつては藍染めの効能が過酷な農業の労働を軽減しましたが、トラクターなど農作業の機械化によってそれも必要なくなりました。時代の変化によって藍染め業者はほとんどなくなってしまったといいます。当時、事業を切り盛りしていた三代目(現社長の父)は、野良着から剣道着へと商品展開を変え、さらに、四代目、五代目の時代ではシーツや生活用品へも広げた商品展開で藍染めの魅力を後世に伝えようと活動しています。

藍染めを広めるための店舗「甕覗き(かめのぞき)」
野川染織工業の藍染め直営店「甕覗き」は、伝統を守りながらも新たな飛躍に向けて「藍染のある暮らし」を掲げている攻めの店舗です。
店名は、藍が最初に染まる淡い青「甕覗き色」に由来しています。店内では藍染の服、作務衣、シャツ、ストール、シーツなど、生活に取り入れやすい多彩なアイテムがそろっており、藍染めの魅力を伝えるイベントの開催も計画されています。
直営店「甕覗き」(外部サイトへのリンク)
オンラインショップ「喜之助紺屋」(外部サイトへのリンク)
古くから伝わる「青縞の市」を再現



田山花袋の「田舎教師」の冒頭で紹介されている「青縞の市」。現在、羽生市の須影八幡神社で、羽生市の後援、野川染織工業の協賛のもと定期的に開催されています。
かつて賑わいを見せていた「青縞の市」を新しい時代に合わせたイベントとして再現する試みです。
技術の伝承、今後の展望
四代目の野川社長は伝統の継承と今後の展望について「藍染めで作った衣類は寒いときは暖かく、暑いときは涼しい。ありとあらゆる効能があります。現代の日本にもう一度、藍染めの良さ、魅力、効能を認識してもらうことが我々のミッションです。先人が考え、伝えてきたことへのリスペクト、これが全てなんです。こんなに素晴らしいことを誰が考えたんだろう、それを守って伝えていかなければ!という思いが強いですね」と情熱あふれる表情で語っています。
また、五代目となる専務の雄気さんは「伝統を継承するためには我々の理念に共鳴した職人を仲間に入れることが大前提ですが、幸い、現在、若く頼もしい職人が多数働いています。彼らと一体となって、藍染め文化を盛り上げていきたいと思います」

羽生市にあるもう一つの染織の会社~小島染織工業株式会社
羽生市には、藍染めの伝統を守ってきた染織の会社がもう一つあります。明治5年に創業した小島染織工業は、伝統的な「武州正藍染め」と革新的な「染色加工」の両輪を特徴とする会社です。代表取締役の小島秀之さんは、「伝統を守るだけでなく、新しい伝統を創ること」にも力を入れ、さまざまな業界の染織ニーズに応えることにも力を注いでいます。
また、工場に隣接する「小島屋」では、藍染めの生地ほか、衣類、のれん、小物などを販売しています。
商品店舗「小島屋」(外部サイトへのリンク)
オンラインショップ「小島屋」(外部サイトへのリンク)
まとめ
「ジャパンブルー」とも称される日本の伝統文化である藍染め。埼玉県羽生市は江戸時代から続く「藍染めのまち」として有名であり、100年以上前に創業した藍染めの伝統を守る会社が残っています。野良着から始まった藍染めの衣類は現代では、剣道着や作務衣などにとどまらず、スカーフや日常着、シーツなどさまざまなアイテムに広がっています。藍染めの魅力を伝える「青縞の市」も定期的に開かれています。
藍染めの魅力を再発見しにお店やイベントに足を運んでみませんか?
- 2024/12/11新規作成


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